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2013年12月14日 (土曜日)

日記3

12月4日(水)
我が家の内孫はただ今高校と中学と小学校に通っています。3人とも男の子です。お母さんは大変です。
外孫は大学生2人ですが、あわせて全部男の子です。元気で育っているので幸せです。
久しぶりに小孫の賞状です。

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12月5日(木)
霜柱が立って寒いのに「カマキリ」がまだ頑張っていました。


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12月7日(土)
地震以後めっきり減った鳥たちの訪れ。
久しぶりに顔を見せてくれましたエナガとシジュウガラ。

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12月8日(日)この日は「大東亜戦争勃発の日」(太平洋戦争)
昭和16年のこの日私は名古屋の国民小学校(この年から)の1年生で小学校の周りを先生や町の人たちと提灯行列した覚えがあります。しかし。
小学3年生のときはすでに防空壕の周りに爆弾や焼夷弾が落ち始め、大きな音がして防空壕が揺れました。名古屋の中心部は焼夷弾により真っ赤に燃えて空が赤くなっているのが見えました。
この頃一番上の兄は召集で兵隊となり、中支(中華民国の中央の辺)に派遣され、機関銃の弾運び(機関銃が行く所どこでもついて行かなければならない)だったそうです。この兄の背中には敵の弾丸が平たく止まっており出血して止まっていたということです。つまり貫通していなかったということです。今でも目に焼き付いて離れないことは兄の出征の時、乗って行く兄の電車を追いかけて泣き叫ぶ母の姿です。男兄弟5人の私は4番目で戦争には取られずに済みました。両親が滋賀県出身の人でしたので彦根と戦況悪化、ますますひどくなる空襲のため醒ケ井のさらに山奥に逃げました。
そして開戦より4年後の昭和20年8月15日の終戦の日は小学校5年生で縁故疎開地の滋賀県堂谷村にいました。米軍があの村の入り口から銃を持ってなだれ込んでくるのではないかと恐れたものです。
今読んでいる渡辺淳一さんの本『瓦礫の中の幸福論』によれば戦後生まれの戦争を知らない人は60才後半の若い人だそうです。日本人のほとんどがもう戦争を知らない人たちだそうです。
日本人200万人以上の人が亡くなった太平洋戦争と米軍占領時代の食べるもののない戦後の10年はやはり忘れてはいけないことだと思います。私は幸い縁故疎開出来ましたが集団疎開の悲惨さも忘れてはならないことです。 12月8日で思い出したこと・・・。

望遠による那須岳の噴煙。

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コメント

そう云えば12月8日は誕生日でしたね。だから宣でしたね。
あの戦争でよく生き残れたものだと思っています。
母は名古屋と醒ケ井の奥の疎開先との往復や銃後の守り(水揚げ競争など)、食料の調達、家族の安全などで疲れていたのでしょう、その年の12月に亡くなっています。48才でした。
すでにそれ以上生きさせてもらい幸せです。

小孫君の書道入賞おめでとうございました 皆んな頑張っていて頼もしいですね
昭和16年12月8日は私の誕生の日 太平洋戦争宣戦布告から私の名前を付けてくれた親父には 感謝しております 日本人誰もが体験した戦争の悲惨さを語れるのはごく少数になりつつありますが・・・こんな形での語りもまったく良いと思います 初めて知りました ということが多いだけに 貴重な回顧碌を ありがとうございました  那須岳の噴煙懐かしく思い出しております 

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